
はじめに
2005年8月29日、この日の私は朝、京都府内の滞在先を発ち、未乗路線である智頭急行線、因美線への乗り潰しを果たし、山陰地方の主要都市、鳥取へと到着したのは16時43分のことであった。鳥取駅からは、17時30分に発車する山陰本線浜坂行普通列車に乗り、浜坂、豊岡、福知山、園部と普通列車を乗り継いで、再び京都駅へと戻る。
2005年当時の山陰本線の鳥取~京都間は、車両については50系客車からの改造気動車キハ33形や、サンパチくんの愛称で魔改造車の代名詞的な存在となった113系3800番台がいたり、東洋随一の鋼製トレッスル橋と言われた余部鉄橋も架け替え工事前で現役だったりと、見どころがいっぱいで楽しい路線であった。今回は当時の鳥取~京都間の乗車記を綴りたい。
目次
- 1.山陰本線とは
- 2.山陰地方のターミナル!鳥取駅!
- 3.元祖魔改造車!?50系客車改造キハ33形の浜坂行!
- 4.「auめっちゃつながるやん!!」の中吊り広告が目を惹いた豊岡行!
- 5.架け替え工事の着工が迫る余部鉄橋を通過!
- 6.魔改造車の代名詞!サンパチくんの福知山行!
- 7.京都に向けてラストスパート!
- 8.青春18きっぷ(赤券)でJR5社のスタンプ収集にも同時に挑戦中!
- 9.この日の行程
1.山陰本線とは
山陰本線は、山陽本線幡生駅(山口県下関市)で山陽本線と分かれ、中国地方の日本海沿岸(山陰地方)を経由し、京都駅(京都府京都市下京区)までの673.8kmを結ぶJR西日本の幹線鉄道路線である。山陰本線はこの他に長門市駅(山口県長門市)と仙崎駅(山口県長門市)との2.2kmを結ぶ仙崎支線と呼ばれる支線を持つ。
2005年8月当時は、寝台特急出雲号も出雲市~東京間で運転されている時代で、編成は電源車を含めた24系客車の9両編成で、牽引機は出雲市~京都間がDD51形ディーゼル機関車、京都~東京間がEF65形電気機関車であった。また、出雲市~東京間の所要時間は約13時間半であった。
今回は、この山陰本線の東側の区間に当たる鳥取~京都間230.3kmを普通列車で乗り通す。鳥取駅の出発時刻は17時30分と既に日も暮れかけ始めた時刻ではあったが、この時間から京都駅を目指しても5時間半ほどで走破が可能だ。
また、当時は、鳥取周辺の区間では50系客車を気動車化改造したキハ33形や、福知山周辺の電化区間ではサンパチくんの愛称で魔改造車の代名詞的な存在となった113系3800番台も現役で運行されていた他、東洋随一の鋼製トレッスル橋と言われた余部鉄橋も架け替え工事の着工を2年後に控えた状況となっていた。
2.山陰地方のターミナル!鳥取駅!
智頭駅から因美線の普通列車で鳥取駅へと到着したのは、16時43分のことであった。鳥取駅は鳥取県の県庁所在地、鳥取市を代表するターミナル駅であるが、日本の県庁所在地の駅としては数少ない非電化の駅である。
鳥取駅は、2面4線の構造をもつ立派な高架駅であるが、線路上に架線が張られていないことから、鳥取駅ホームから見上げた空はとても広く感じた。なお、日本の県庁所在地の代表駅が非電化であるというのは鳥取駅の他には、山口駅、徳島駅、高知駅の3駅が存在する。
しかし、非電化の駅ではあるものの鳥取駅から各地を結ぶ優等列車の本数はかなり充実をしており、県庁所在地の代表駅としての他の駅と比べても引けを取らないものがある。2005年8月当時、鳥取駅を発着する優等列車は、倉吉駅・鳥取駅と京都駅を結ぶ特急スーパーはくと号が7往復、鳥取駅と岡山駅を結ぶ特急スーパーいなば号が5往復、鳥取駅と米子駅・益田駅を結ぶ特急スーパーまつかぜ号が5.5往復、鳥取駅と新山口駅を結ぶ特急スーパーおき号が1.5往復、鳥取駅と大阪駅を播但線経由で結ぶ特急はまかぜ号が1往復、そして、出雲市駅と東京駅を山陰本線経由で結ぶ寝台特急出雲号が1往復が設定されていた。
今回は、まずこの鳥取駅を17時30分に発車する浜坂行の普通列車から山陰本線東部の旅をスタートさせる。
3.元祖魔改造車!?50系客車改造キハ33形の浜坂行!
鳥取駅から乗車する浜坂行の普通列車は17時30分に2番のりばから発車する。のりばには17時を過ぎたころから徐々に列車を待つ人々の列ができ始めていたことから、私も早めに列へと並ぶことにする。
そして、17時22分ころ浜坂方面よりキハ47形気動車を先頭にした2両編成の列車が入線。どうやらそのまま折り返し列車として浜坂行の普通列車になるようであった。列車の編成を改めて見てみると2両目の車両のデザインがキハ47形とは明らかに異なっていることに気付く。よく見てみると、2両目の車両は国鉄50系客車を気動車化改造したキハ33形気動車だった。このキハ33形はわずか2両しか改造されなかった希少車種だ。
そもそもなぜ国鉄型の50系客車をわざわざ気動車化改造したキハ33形という車両が生まれたのか。それは、1980年代後半の国鉄分割民営化前後の時代、客車列車の急速な電車・気動車化によって余剰となった車齢の若い50系客車を有効活用する必要が生じたからである。キハ33形気動車は50系客車のオハ50形の車体をほぼそのままにエンジンと運転台等の設備を追加することにより1988年に登場した。
しかし、改造内容が多いため改造コストが高額となり、客車改造によるコスト低減効果が低いと判断されたことから、2両のみの改造で終わった希少車種である。2005年当時はトイレ付きのキハ47形0番台とペアで2両編成を組み山陰本線鳥取~浜坂間の普通列車(浜坂方先頭車)として運用されていた。
列車は17時30分、定刻通りに鳥取駅を発車すると、鳥取市内の単線高架線を東へと向かって疾走していく。鳥取駅を発車してしばらくすると進行方向右手側の車窓には鳥取三洋電機の工場が見える。2005年当時の鳥取三洋電機の主力製品は携帯電話機で主にau向けのガラケー端末の生産を行っていたようで、この時私が使っていたauのガラケー端末も三洋電機製のものであった。その後、2009年になり三洋電機はパナソニックに買収され「SANYO」のブランドロゴは消滅してしまうことになるが、この鳥取三洋電機の工場はその後どうなっているのか、大変気になるところではある。
鳥取市街地を高架線で駆け抜けると列車は一気に山の中へと入り、小さな集落に置かれた無人駅にこまめに停車し、鳥取駅からの乗客を降ろしていった。
そして、列車は県境を越えて兵庫県へと入り、いよいよ関西地区へ。終点の浜坂駅へは18時13分の定刻通りに到着した。鳥取~浜坂間の32.4kmの所要時間は43分であった。
なお、この時、乗車したキハ33形は、その後、2010年3月13日のダイヤ改正で定期運用から退き、同年3月30日付で廃車・廃形式となっている。2両あったキハ33形のうち1001については津山まなびの鉄道館(旧津山機関区・扇形機関車庫)で静態保存されているが、1002は後藤総合車両所にて解体された。
4.「auめっちゃつながるやん!!」の中吊り広告が目を惹いた豊岡行!
浜坂駅は、兵庫県美方郡浜坂町(現新温泉町)の代表駅であり、近畿北部の温泉どころ湯村温泉への鉄道での玄関口となっている駅だ。浜坂町はこのおよそ1か月後となる2005年10月1日に温泉町が合併して新温泉町と名を変えることになるが、新町名である新温泉町の通り、浜坂駅の周辺には他にも温泉地を多く抱えていることが特徴の地域だ。
また、浜坂駅は特急はまかぜ号の全列車(折り返し便も含む)が停車し、大阪まで乗り換えなしの1本で行くことが出来、さらに、カニのシーズンには11月と12月の週末、1月から3月中旬までは毎日、臨時特急かにカニはまかぜ号が当駅まで運転されているなど、浜坂という地域は鉄道を活用した京阪神地区からの観光客の集客に熱心な地域であるという印象を受ける。
浜坂駅では15分の待ち合わせ時間の後、18時28分発の豊岡行へと乗り換え、さらに東へと向かう。こちらの豊岡行普通列車はキハ47形気動車の2両編成で、浜坂~豊岡間の49.5kmを1時間4分で結ぶ。
列車は定刻通りに浜坂駅を発車すると、小さな川の谷沿いに内陸部へと分け入っていく。山陰本線でも特に浜坂から餘部、香住にかけては急峻な山々が海岸線まで張り出した地形であることから海岸線沿いに線路を敷くことが不可能で、山側を迂回して線路の敷設が行われた。
車内を見渡すと「山陰本線・播但線沿線でも auめっちゃつながるやん!!」という中吊り広告が目に留まった。この地域の山陰本線沿線は周囲の地形が急峻なこともあってか、当時の携帯電話の電波事情があまり芳しくなかったことから、auの携帯電話がつながりやすいように工事を行ったということなのであろうが、「auめっちゃつながるやん!!」という人間の感覚に直感的に訴えかけるようなキャッチコピーは如何にも関西人らしいセンスだ。
また、鳥取市内に工場を構えていた当時の鳥取三洋電機ではau向けのガラケー端末を主力製品として生産をしていたようであるので、この地域のauの接続事情が改善されれば鳥取三洋電機のau端末需要の掘り起こしをより一層加速させることができるようになりそうだ。余談ではあるが私は高校1年生の時からのauユーザーである。
▲「auめっちゃつながるやん!!」直感的なキャッチコピーに関西人のセンスを感じた。
そして、2007年の架け替え工事の着工を控えた余部鉄橋に隣接する餘部駅は浜坂駅の2駅先となり、鮮やかな朱色の鉄骨がとりわけ目を引く東洋随一の鋼製トレッスル橋の通過に向けて心が躍る。
5.架け替え工事の着工が迫る余部鉄橋を通過!
余部鉄橋に隣接する餘部駅へと到着したのは18時42分のことであった。あたりは徐々に暗くなり始めており、このとき私の所有していたCanon製コンパクトデジタルカメラの性能でしっかりと写真の撮影ができるのか心配ではあったが、ISO感度を上げてどうにか余部鉄橋の最後の雄姿をカメラに収めることにした。
余部鉄橋は、餘部駅と鎧駅の間に形成された長谷川の谷間を渡るために1912年(明治45年)に架けられた鉄道橋で、全長が310.59m、下を流れる長谷川の河床からレール面までの高さが41.45mの巨大な鋼製トレッスル橋だ。そして、余部鉄橋はその独特な構造と鮮やかな朱色がもたらす風景は、鉄道ファンのみならず、山陰地方を訪れる観光客にも人気があった。
しかし、その一方、直近の地元住民は多くの落下物や騒音に悩まされてきた事例もあり、余部鉄橋による負の一面も存在していたことなどや老朽化を理由として鉄橋の架け替えが決定。2代目の余部鉄橋はコンクリート製のエクストラドーズドPC橋で架け替えられることとなり、初代鋼製トレッスル橋は撤去されることとなった。
なお、余部鉄橋の余部(あまるべ)については、長谷川の谷間に広がる集落の名前である余部(あまるべ)から採用されたが、鉄橋に隣接する餘部(あまるべ)駅については、おなじ兵庫県内の姫新線に余部(よべ)駅があることから、それと区別するために漢字を変更して餘部(あまるべ)の表記になったそうだ。
列車は餘部駅での短い停車を終えると、いよいよ余部鉄橋への一歩踏み出し、ゴーゴーと轟音を響かせながら鉄橋を渡り始めた。
余部鉄橋の高さはおよそ40mということでビル10階分に相当する高さである。そのため、眺めはとてもよく日本海を背に広がる余部の集落の様子や、海にせり出した山々、内陸部に向かって伸びる国道178号線の様子をはっきりと見ることが出来た。
列車は300mほどの長さの鉄橋をあっという間に渡り終えるとすぐにトンネルへと吸い込まれた。そして余部鉄橋を渡って最初の停車駅である鎧駅に到着する頃にはあたりはすっかり暗くなっていた。
列車はそれからも夜の帳の中を疾走し城崎温泉駅へ。城崎温泉駅からは電化区間となるが2両編成の気動車列車はそのまま架線の下を疾走し、終点の豊岡駅へと到着したのは19時32分のことであった。
6.魔改造車の代名詞!サンパチくんの福知山行!
豊岡駅は、北近畿タンゴ鉄道との分岐駅でもあり、この駅から天橋立や西舞鶴方面へと鉄道でアクセスすることができる。また、兵庫県豊岡市は、奈良時代より続く柳行李(豊岡杞柳細工)をルーツとする鞄の産地ということで、駅名標の横には「かばんのまち」であることをPRする看板が掲げられていた。
この豊岡駅では9分の接続時間ののち、福知山行の普通列車へと乗り換える。鳥取駅から豊岡駅までのおよそ2時間、ひたすら気動車列車に乗り続けてきたが、ここから京都までは電化区間となり乗車する列車もいよいよ電車列車となる。
そしてなんと!今回の山陰本線の旅で登場する初めての電車列車は魔改造車としての名が高いあのサンパチくんであった。
サンパチくんとは、113系3800番台のことで、2001年に福知山線用の113系800番台を、同線篠山口駅以北及び山陰本線福知山駅~城崎温泉駅間でのワンマン運転化のために改造した車両だ。この車両は種車である800番台3両編成を2両編成に短縮したものだが、中間車だったモハ113形を先頭車に改造するにあたって、改造コストの低減のため極端に簡略化された行程により製作された車両である。
そして、前面に取り付けられた黄色の警戒色で塗った補強板(通称:サンパチボード)がその安っぽい見た目を際立たせていたことはもとより、行先表示は回転式の方向幕ではなく板を使用し終点到着後に運転士が差し替えて対応していたことなど、その車両のインパクトから一部の鉄道ファンネットユーザーからはサンパチくんの愛称が名付けられ魔改造車の代名詞的な存在として広く知れわたる車両となった。
豊岡駅から福知山駅までの59.9kmをこのサンパチくんは1時間6分で走破する。発車時刻は19時41分ですっかり夜になってしまっていることから、すでに車窓風景は楽しむことはできなかったが、時折車窓に流れる街の灯が旅情をそそる。
真夏の夜ということもあって、駅に停車するたびに電車の光に吸い寄せられた虫が車内へと入ってくることはやや気になったが、虫刺されをしないように私の近くに寄ってきた虫は極力、新聞紙で叩き落すように努めた。
気になるサンパチくんの車内の様子であるが、運転席については、客室と同じ高さの床に運転士用の椅子と運転台が直置きされたような感じで、客室との仕切りもパーティションのようなもので仕切られているだけという簡易な構造で、車内に至ってもその改造の安っぽさが際立つ作りとなっていた。
なお、その安っぽい見た目のインパクトから大きな知名度を獲得したこのサンパチくんこと113系3800番台は、この3年後となる2008年8月に223系5500番台に置き換えられ惜しまれながらも全車引退している。
7.京都に向けてラストスパート!
サンパチくんで福知山駅へと到着したのは20時47分のこと。京都まではいよいよ100kmを切り、残りの距離は88.5kmだ。ここでは、8分の接続時間の後、園部行の普通列車に接続し、1時間12分をかけて園部へ。園部からはさらに7分の接続時間で京都行に接続し、山陰本線の終点となる京都駅へと到着したのは22時58分のことであった。
この旅では、客車改造気動車のキハ33形、魔改造車の代名詞サンパチくん、そして、架け替え工事の着工が迫る鋼製トレッスル橋の余部鉄橋など山陰本線の多くの魅力に触れることができたが、これらは2020年現在では既に見ることの出来なくなってしまっている。
8.青春18きっぷ(赤券)でJR5社のスタンプ収集にも同時に挑戦中!
2005年の夏の旅行では、日本各地の未乗路線の乗り潰しと並行して、青春18きっぷのスタンプ欄をJR5社のスタンプで埋めるということにも同時に挑戦!
1回目はJR九州・博多、2回目はJR四国・松山、3回目はJR西日本・大阪、4回目はJR東海・名古屋、そして最後の5回目はJR北海道・札幌といった具合である。
この智頭急行線の乗車記では3回目のJR西日本・大阪の入鋏で起点となる上郡駅まで移動。その後、終点の智頭駅から鳥取駅を経由して関西方面への帰路に使用した。なお、入鋏がこの日の出発地である山城多賀駅ではなく大阪駅となったのは、山城多賀駅が無人駅のためである。
9.この日の行程
- 山城多賀 08:27発 → 京都 09:06着(奈良線620M)
- 京都 09:16発 → 大阪 09:44着(東海道本線新快速3427M)
- 大阪 10:00発 → 相生 11:26着(東海道・山陽本線新快速3429M)
- 相生 11:27発 → 上郡 11:39着(山陽本線1315M)
- 上郡 12:16発 → 大原 12:58着(智頭急行智頭線739D)
- 大原 13:12発 → 上郡 13:55着(智頭急行智頭線740D)
- 上郡 14:19発 → 智頭 15:49着(智頭急行智頭線743D)
- 智頭 15:56発 → 鳥取 16:43着(因美線638D)
- 鳥取 17:30発 → 浜坂 18:13着(山陰本線542D)
- 浜坂 18:28発 → 豊岡 19:32着(山陰本線184D)
- 豊岡 19:41発 → 福知山 20:47着(山陰本線448M)
- 福知山 20:55発 → 園部 22:07着(山陰本線1156M)
- 園部 22:14発 → 京都 22:58着(山陰本線288M)
- 京都 23:03発 → 山城多賀 23:42着(奈良線687M)
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